市政の動き−議会報告

【14.05.25】総務企画常任委員会が新美南吉の下宿先など視察

南吉作品の半分以上は下宿で

   新美南吉は、昭和13年4月から安城高等女学校の教員となりました。半田から通っていましたが、学校の近辺から通うよう県の指示があったため、昭和14年4月から大見家(新田町)で下宿を始めました。
 部屋は8畳一間で二方が廊下になっていて、下宿代は2円90銭で、初任給は70円でした。
 「作品の半分以上はこの下宿で書き、文学的には大事な時期であった。本がうずたかく積まれ、布団も引きっぱなしであった」と説明がありました。
 あんくるバスのバス停が「南吉の下宿先」となっており、バス停から下宿先まで道路にきつねの足跡がペイントされていて、迷わずにたどり着くことができます。

西蓮寺(東端町)の弥厚茶室、弥厚公園の銅像

 都築弥厚は私財を投じて明治用水開発の先駆けをなしましたが、借財のみが残り、茶室は東端村の大橋新五郎が天保2年(1831年)に譲り受け西蓮寺(東端町)に移築されました。
 和泉町にある弥厚公園(2900㎡)には弥厚の銅像と松尾芭蕉の句碑があります。公園は、没後180年を記念して、トイレ改修や階段補修、あずまや設置などをおこない、2013年9月13日にリニューアルオープンしました。
 都築弥厚は、江戸時代の終わりのころに活躍した、和泉村(現在の和泉町)大庄屋です。酒造業を営む裕福な家に生まれ、後に根崎陣屋の代官を務めるなど、この地域の実力者でした。弥厚は、荒れ地の広がる安城ヶ原に用水をひき、大規模に新田開発する計画をたてますが、水害の心配などから関係の村々が反対し、実現することなく天保4年(1833年)に亡くなりました。ところが、この計画は後に岡本兵松や伊与田与八郎にひきつがれ、明治13年(1880年)に完成します。「明治用水」と名付けられたこの用水により、安城を中心とする碧海郡一帯は農業の盛んな地域に生まれ変わりました。・・・(天野信治 安城市歴史博物館)  

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